資本主義への敗北宣言

私は資本主義に屈することにした。このブログは、いかにして日本の資本主義社会の中心である東京を生き抜くかを模索するための、思考およびその実践を記録するものである。

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資本主義に敗北するとはどういうことか。その説明をする前に、この記事を書いている私自身が何者かについてを簡単に説明したい。私は20世紀の末に生まれた、Z世代に分類されたりされなかったりする世代の人間である。東京に生まれ、東京大学に通い、そしてJTCと呼ばれるような日本の伝統的な企業に職を得た。外資系金融や総合商社、デベロッパーに就職した大学の同期には遠く及ばないとしても、客観的に見れば、給与水準も世間一般よりも恵まれているほうである。

私は資産家でも貴族でもないが、公教育の恩恵をある程度受けてきたという自覚はある(もっとも、私が受けた公教育は国民全員がアクセスできるものではあるが)。その自覚から、ノブレス・オブリージュの意識をかつては持っていた。自分が得た収入は、社会がよりよくなるように使うほうがよいという意識である。なお、「資本主義への敗北」を宣言すると誤解されるかもしれないが、私は共産主義者だったことは一度もない。もちろん21世紀に合わせたアップデートはしなくてはならないと思うが、私は高度経済成長時代の日本のような、勤勉に働くことで報われる社会を理想とする保守的な人間である。ノブレス・オブリージュの意識も、保守的な価値観に由来するところが大きい。

ところで私が物心ついた頃、すでに「一億総中流」という言葉は過去を形容する言葉になっていたが、それでもギリギリ「総中流」的な意識は国民の中に保たれていたと思う。地域的な事情は大きいと思うが、当時の私は小学校のクラスの中で家庭の経済格差を感じる機会はほとんどなかった。のちに小学校の同級生の中に地主の子どももいたことを知ったが、そんなことも分かっていなかった。子どもにとって身近な格差とは、最先端のゲーム機を持っているかどうかだったのだ。その頃「親ガチャ」という言葉は存在しなかったが、ほかの同級生の親が羨ましいという話をクラスですることはあった。しかし、それは親の教育方針や性格の話をしているのであって、もちろんゲーム機を買ってもらえるかは経済的な理由もあるのだが、家の経済的な豊かさが話題になることはほとんどなかった。そして、「親ガチャ」議論は最終的には、飢餓が蔓延するような国々があるなかで、日本に生まれただけで十分なのではないかという結論に落ち着いた。まだ日本は豊かだったのだ。

だが、いまや日本の一人当たりGDPはアメリカの半分以下になり、韓国にも追い抜かされている。そして日本は豊かでなくなっただけでなく、「一億総中流」も完全に崩壊し、格差社会に両足を踏み入れている。格差社会で得をするのは力を持つものだけであり、一般人にとって良いことはない。日本でも世界でも富裕層の数は過去最高を更新し続け、その一方で日本の実質賃金は四半世紀にわたって停滞し続けている。トリクルダウン理論は完全に否定されている。一般国民は格差拡大を招くような政策には、反対するべきではないのか?

資本収益率は経済成長率を上回る

しかし、現在の日本の世論は、格差是正には向かっていない。高い支持率を持つ高市政権は格差是正を掲げてはおらず、XなどのSNSには株高を喜ぶ声が多くみられる。もちろん、株高不況を憂う声や通貨価値の毀損を嘆く声も多いのだが、現状高市政権は圧倒的な支持率の高さを誇っているのが現実である。

株式市場は史上最高値を記録し、不動産価格は高騰し、あらゆる資産は膨張を続ける。だが、その恩恵に与るのは、すでに資産を持つ者だけである。しかし、これは偶然ではなく必然である。

トマ・ピケティは『21世紀の資本』で、「r>g」という不等式を示した。

資本収益率(r)は経済成長率(g)を恒常的に上回るという式である。つまり、資産運用による収益(r)は平均すると年4〜5%だが、労働収入の成長率(g)は年1〜2%にとどまっており、資本を持っている者の行う投資のリターンに労働者はいつまでたっても追いつかないということである。

先ほど私は共産主義者ではないと書いたが、一方で資本主義には限界もあると思っている。資本主義の世の中においては、格差は固定化されるどころか、年々拡大する運命なのだ。この流れに、一個人が抗うことはできない。だから、格差が年々拡大しないようにするためには、政治に期待するしかないのだ。だが、国民の多くはいかにして勝ち馬に乗るかを考えているばかりで、格差が拡大すること自体は政治上の争点として問題視していない。そんな世の中で、富裕層でもなく自分の資産さえ将来は安泰と思えないのに、もはやノブレス・オブリージュの精神など言っていられないのだ。

いかに資本家に近づくか

力のあるものがより力を得るという現状を理想だとは思わないが、現在、世界は新たな帝国主義に突入している。資本主義も加速し、強者が独占する世界になる。少なくとも、資本主義の権化であるトランプ大統領がアメリカを支配しているうちは、この原則が変わることはないだろう。

強者が総取りする世界に、私はもはや諦めの感情を抱いている。だから、資本主義への敗北を受け入れたのだ。

資本主義に敗北するとは何か。それはノブレス・オブリージュを捨て去り、一億総中流という幻影を忘れ、自分が資本家の側に近づくことを目指すことである。

たとえば会社で、資本家の側とは何なのか。資本主義社会では、会社は社員のものではなく、株主のものである。私は本来、しばしば投資家が唱える「企業は株主の利益を最大化させるべきだ」という意見に必ずしも賛同しないが(まずは利益は社員に還元するべきだと思う)、しかし資本主義のルールとして会社は株主のものなのである。

2025年は、資本家の強さを感じさせる出来事がいくつもあった。日本の経済界で最も著名だった経営者が、薬物疑惑によって一切の立場を失った。彼は資本家ではなく、結局のところ労働者だったのだ。株を持っている者の強さを改めて感じる出来事でもあった。そして日経平均は史上最高値を更新した。この株高をバブルだと考える意見もある。しかし、日本円の価値がどんどん下がっていることに、疑いの余地はないように思う。そのようなインフレ下の社会においては、有価証券は資本を守るためのものとなる。

資本収益率は経済成長率を上回る。この世の中を生きていくためには、資本主義の仕組みに迎合するほかないのだ。だから私は、有価証券に投資することにした。私はもはや資本主義の共犯者だ。「株主になってやる」という大企業への抵抗の気持ちもどこかにあるが、財産を投じてしまった以上、心の中では大企業の利益拡大と株価の上昇を望んでいるのだ。

しかし、強者総取りの社会は決して望ましいものでもないというのは本心から思っている。それに、すべての人が生産することをやめ、すべての人間が投資しかしなくなったら、世界は成り立たない。その投資社会の矛盾が限界を迎えた時、この社会はどうなるのかという疑念は持っている。

だが、この歪な資本主義への認知的不協和は、心に一種の平穏ももたらす。もしこの決断により資産を守ることができれば、資本主義への敗北の結果として勝利を掴んだことになる。だが、仮に私の保有する有価証券が暴落したとしても、それは私が一度は敗北した資本主義に対する勝利なのだ。